偶然と呼ぶには / まよい
「センセイ」先生、でもせんせい、でもなく彼女はセンセイと発音した。セーラー服にも街路樹にもどこにも色のない世界の中で、二人のマフラーの色だけが鮮やかだった。
「今、帰るところですか」冬の朝みたいな声に、引っ張られるように軽く頷く。彼女は満足げに笑んだ。
「田端さん、部活とかは?」
「何も。図書室にいて」
「そう」多分、昇降口で出会ったのは偶然ではなかった。先週も、その前も。駅までの道をゆっくり歩く。確かめるみたいに。恐れるみたいに。
「センセイは明日も学校ですか」
「部活あるからね」
「日曜日なのに」
「忙しいんだよ、先生って」二人の白い息が交互にうまれては消える。
「センセイは美大を出て美術の先生になったんですか」
「そうだよ」彼女は斜め下をぐっと見つめたまま押し黙っている。
「進路のこと?」と私が言うと、からだじゅうに零れんばかりの液体を湛えているみたいな表情でこくりと頷いて、そのあとぱっと私の目を見つめた。彼女の好意が単なる尊敬ではないということは、多分、最初から知っていた。彼女は私の脳味噌をスキャンするみたいに二秒だけじっとしていて、それからまたぱっと目を逸らした。
「センセイ、今度、放課後に美術室に行ってもいいですか」風が吹き抜ける。舞い上がる髪の毛の一本一本が曇り空の下で光をはらんでいて、視線をそちらに絡めとられる。その光に引っ張られるように頷いてしまう。拒む理由なんて、最初から見つけられないけれど。また彼女は満足そうに笑む。
「それじゃあ、私、バスで帰るので」私達がバス停に到着すると同時にバスの扉が開く。偶然と呼ぶにはあまりに美しすぎるタイミングで。白い息だけが空間を埋めつづける。
「気をつけて」寒さのせいで青白くなった彼女の脚がステップを踏む。
「さよなら、センセイ。また明日」語尾をバスの中に押し込めるように扉が閉まる。偶然と呼ぶにはあまりに美しすぎるタイミングで。窓際の席に腰かけた彼女がこちらを見た、ような気がした。けれどそれも一瞬のことで、またその横顔に絡めとられる。明日は雪が降るらしかった。
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