精霊 / 内藤翼


 桜の花びらに満ちたガラスボウルをかかえて、弟が帰ってきた。
 学校から戻ってくるとすぐにランドセルを置いて、ふたたび外へ出てしまい、日が暮れても何の連絡もなかったので、何をしているのだろうと思っていた。また酔狂なことをしたねえ、と私は言った。
「お風呂に入れたいと思って。」
 弟の顔は華やいだ。
「地面に落ちていたなら、汚れがついているんじゃないの。」
「積もったのと、あとは落ちてきたのを受けとめたからきれいだよ。」
 はらはらと落ちかかる花びらを、上目づかいになって追いかける弟の、あいらしい姿が目にうかんだ。そろそろ夕飯の時刻であったが、彼はすぐにでも試したい様子であった。すでに風呂は沸いていた。はやく入ってきなさい、という母の言葉が背中をおした。
 かけ湯をすませると、弟は早々に浴槽へ花びらを投じた。ガラスボウルは湿気でやわらかにくもった。同じ桜といっても、ひとつひとつで微妙に色あいの異なるのがわかった。白さのあまり、奥底のほうが青く輝くものもあれば、あわい藤色のもの、そして私たちの肌のような、やさしい黄色を宿した花びらもあった。そのどれもが私の胸を打った。
 ふたり一度につかっては、湯とともに花びらがあふれ出てしまうことに気付いて、弟は悄然とした。
「兄さんといっしょがよかった。」
「先におはいり。ぼくは身体を洗っているから…… 。」
 波がたたぬように、弟は身体をかがめて、そろそろと湯に足を差しいれた。ゆがみのない頸や背中の骨の形が浮かびあがった。ふとした哀しみが私を襲った。桜の優しさと麗しさとが、弟をこの世のものではないかのように見せたのである。花のひとひらひとひらが首筋や鎖骨のあたりへ吸いつき、彼の顔にほのかな慈しみと、そして紛れもない、匂やかな死の気配とを宿らせたのであった。どこか誘惑するようでもあった。私が思いもかけず伸ばした腕を、弟はその花びらで覆われた手で掴んだ。あるいは私が掴まれたのは魂であったかもしれない。桜を長く見つめていると、時おり静かな狂気にさそわれることがある。この時私の裡にすべりこんできたのは、そのような途方もなさであった。
 弟に手をひかれるままに浴槽の縁をまたいだ。湯は大きく波うった。私は弟の腕をもはや腕とは考えていなかった。ひとつのしなやかな桜の枝であった。弟の胸に顔を寄せると、満開の桜の大木の下で安らうようであった。そうして私は、花々のなかへ沈んでいった。

めらたん

日本大学芸術学部、未公認サークルの「めらたん」です。エモーショナルな短文を書いています。

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