深海 / 関口修
解像度の低い、隣の彼を見ることができて、幸福だと思った。コンタクトレンズを外した目で、彼を見る。唇の、右の少し上の黒子。一度もつぶされたことのないような、お手本のような形の耳。くせっけで、ワックスなしでも整えられると言っていた黒くて硬い髪を。
キスしたときに触れた、少しちくちくした顎。そして、くっきりと輪郭を浮かばせる頬をみて、うっとりした。さっき柔く噛んだ喉仏は、静かに浮き沈みしている。
暗闇に目が慣れたせいだと思った。分厚いカーテンに星たちの光は遮断されて、ランプシェード越しに光る電球の弱い光だけが、私に当たっていた。彼にはその光すら届かなくて、それが悲しかった。
明日には、もう彼のこの姿を見ることができない、そう知っていたから、ずっと見ていたかった。旅館の、きちんとベッドメイクされた、固いシーツの中に入る。セミダブルのベッドは、少し小さくて、肩が当たった。正しく上下する彼の胸元をみながら、自分の胸に手を置いた。胸がいっぱいで、彼のように、うまく呼吸することができない。
教科書にはこんな副作用、書いてなかった。いつも大盛で頼む定食が食べられなくって、二十円引きのご飯少なめにしてもらうことや、いつもおしゃべりな口が動かなくなること、夜、お気に入りの音楽をかけても、いい匂いのするミストを炊いても、うまく寝つけないことも。幸福だと思っているのに、苦しくって、悲しいって感じる。今までどおりに生きることができなくなる。よくなる薬なんてなくて、どんどん息ができなくなって、深海に沈んでいくようだと思った。キスしていたときは、息をすることができたのに、彼が隣に寝ているだけで息ができなくなる。このまま沈んでいったら、海の底、光の届かないところにいってしまう。だけど、そこなら、彼と同じ場所で呼吸することができるんじゃないかとも思う。
教科書には載ってない、正しい、道じゃないところを、ただ沈む。
彼の手の甲に、自分の手をくっつける。彼の体温に浸りながら、反対の手でランプシェードに映る光をしぼった。
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